最も誤解されている映画5選

監督のメッセージがまったく伝わっていない映画の数々…。

 

火垂るの墓

僕はこの映画を今までに一度しか観たことがありません。

多分この先も観ることはないでしょう。

別に映画が気に入らなかったわけではなく、むしろ逆に、登場人物にあまりに感情移入しすぎて辛すぎるから二度と観たくないのです。

海外でも「Grave of the Fireflies」というタイトルで公開され、非常に高い評価を得ています。

そして、多くの批評家が、この映画を「反戦映画」として捉えているのですが、ストーリーを考えれば、それはある意味当然と言えるでしょう。

ところが…。

高畑勲監督は、このような捉え方に極めて批判的であるのをご存じでしょうか。

監督自身はこの映画を「反戦映画」などとは微塵も考えておらず、そのようなメッセージを込めたつもりも無いそうです。

では監督がこの映画で本当に伝えたかったものとは何なのか。

それは、子供というのは生きるのが困難な時代にあってもその辛さに耐え、社会のために働く大人たちを尊敬すべきである、ということだそうです。

ということは、第二次大戦を作品の舞台としたのは、あくまで上記のテーマを描くための手段だったということになりそうです。

そう考えると、「反戦映画」とはまるで異なるものになってしまいますね。

 

シャイニング

 

ホラーの巨匠スティーブン・キング原作、スタンリー・キューブリック監督の作品。

冬の間だけホテルの管理人をすることになった主人公ジャック・トランスが、そのホテルに取り憑いた霊によって狂気の存在へと変貌していき、遂には自分の妻をも襲い始める…といったストーリー。

多くの人がこの映画を、幽霊の恐ろしさの一面を描いたホラー作品と捉えているのではないでしょうか。

確かに、作品中で幽霊はシナリオ展開上重要な存在として登場するのですが、原作者の意図はまったく違っていたようです。

実は重要なのは、幽霊達がジャックに「」を飲ませることによって彼を狂人へと変えていくという点なのです。

この作品を執筆中、スティーブン・キングはアルコール中毒に苦しめられ、酒によって普通の人間が崩壊していく過程を描きたかったらしいのです。

 

ちなみに、スティーブン・キング自身は、キューブリック監督の「シャイニング」を

映画としては傑作

と評価しながらも、

あれは僕の書いた『シャイニング』じゃない

として不満を抱き、後に自らが監督したものを制作しています。

 

ロボコップ

 

敵の凶弾に倒れ、再起不能な重傷を負った主人公が、全身を機械化したロボコップとして復活し、ハイテクな武器を駆使して悪漢を薙ぎ倒していく爽快なアクション映画です。

しかし、ポール・バーホーベン監督自身は、そのようなアクション要素とは別に、意外なメッセージをこの映画に込めていました。

実はこのロボコップ、何とイエス・キリストの誕生になぞらえているのだそうです。

映画の前半50分では主人公がひたすら苦しみを味わい、後半50分では世界を救うスーパーコップとして復活を遂げる。

それはまさにイエス・キリストの誕生そのものである、と。

そう言われると、確かにそう捉えられなくもないですが、ちょっと分かりにくい気が…。

 

インセプション

 

※ 以下の記事にはネタバレがあります!

レオナルド・ディカプリオ渡辺謙が共演したことでも話題となった作品。

主人公たちは特殊な機械を使って他人の「」に侵入し、彼らの意思決定に手を加えるプロ集団…。

僕などはこういう設定だけでワクワク感が止まらないのですが、映画のストーリーはなかなかに複雑で、かなり集中して観ないと置いてきぼりをくらうこと必至。

さて、この映画をご覧になった方なら、最後のシーンを観た後で、何かモヤモヤした感覚になったという人は多いのではないでしょうか。

主人公のコブがコマを回し、それにカメラがズームしたところで映画は終了します。

コマが途中で倒れたら、コブは現実世界にいる。

コマが倒れなければ、コブはまだ夢の中にいる。

一体どっち?どっちなの!?

ていうか倒れろ!倒れろよ!

お、何かコマが倒れかけているような、そうでもないような…。

え、これで終わり?

結局どっちなんだあ!

などと心の中で叫んだ人もいるでしょう。

僕は叫びまくりました。

では、クリストファー・ノーラン監督の真意はどうだったのかというと…。

実は、この映画の最後のシーンがコマのアップで終わるのは、ある意味、監督が観客に仕掛けた「」なのです。

というのも、このラストシーンで重要なのは「コマ」ではないからです。

その証拠に、コブはいつものようにコマを回すものの、コマが倒れるかどうかを確認せずに子供たちの方へと去って行きます。

つまり、子供たちとの再会を果たし、この世で最も大切な存在を取り戻したコブにとって、それが夢なのか現実なのかはもうどうでもいいことなのです。

このシーンでコマが倒れるかどうかに気を取られていた人は、監督が込めたメッセージをまったく読み取れていないということになります。

・・・やられた。

 

ファイトクラブ

 

※ 以下の記事にはネタバレがあります!

 主人公のジャック(エドワート・ノートン)はタイラー(ブラッド・ピット)と出会うことで「暴力」の持つ麻薬的な魅力に取り憑かれ、やがて二人は「強さ」だけが価値をもつ「ファイトクラブ」を設立する…。

個人的には非常に気に入っている作品なのですが、この映画が公開された当時、アメリカではかなり物議を醸しました。

暴力を美化しすぎていると非難されたり、また実際に「ファイトクラブ」を作ってしまう輩まで出てきたことも問題視されたのです。

しかし、この映画が「暴力」というものを肯定的に描いていると捉えるのは、デビッド・フィンチャー監督の意図する所とはまったく逆のようです。

監督が描きたかったのは、「男らしさ」や、それにつながる「暴力」といったものを過度に追求することへの痛烈な批判だったのです。

その証拠に、筋骨隆々でケンカが強く、男らしさの象徴のような存在だったタイラーは結局存在しなかったという衝撃のオチが待っています。

マンガのヒーローのように悪を倒す目的があるわけでもなく、ただ男達が殴り合うだけのファイトクラブは、強さに執着する男たちへの皮肉だったということなのでしょう。

サブコンテンツ

このページの先頭へ