無実の罪で死刑を執行された人々6選

ほぼ確実に無罪でありながら死刑を執行されてしまった人たちをご紹介します。

冤罪というのは、ある意味人が生きていく上で遭遇する最大の罠かも知れません。

ある日突然身に覚えのない犯罪の容疑をかけられ、裁判で被告人として出廷する。

仮に無罪を勝ち取ることが出来ても、もはや元の生活は戻って来ないでしょう。

それでも、冤罪であることを証明して第二の人生を始められるならまだ救いがありますが、極刑を言い渡され、刑を執行された場合はもう全てが終わりです。

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1 真犯人と似すぎていた男

ガソリンスタンド

1983年2月4日、テキサス州コーパスクリスティのガソリンスタンドで、従業員のワンダ・ロペスが刺殺されました。

複数の目撃証言から警察はカルロス・デルーナという男性を逮捕。

しかし、事件とデルーナを直接結びつける物的証拠は何もありませんでした。

デルーナは無罪を訴え、真犯人は恐らくカルロス・ヘルナンデスであると主張。

彼の話によると、このヘルナンデスという人物はデルーナと顔がそっくりだということでした。

これが真実なら、目撃証言はこの二人を間違えている可能性が高いわけですが、検察はこの主張を退け、ヘルナンデスなどという人物は存在しないと断定。

その後デルーナの極刑が確定し、死刑が執行されました。

そしてデルーナの死から2年が経った1999年、ヘルナンデスがワンダ・ロペス殺害を自供

彼の外見は正にデルーナと瓜二つだったのです。

2 引越し先に連続殺人犯

ストレス

1949年12月2日、ロンドン西部のノッティングヒルに住むベリル・エヴァンスとその娘のジェラルディンが自宅で絞殺されました。

第一容疑者となったのはベリルの夫であるティモシー・エヴァンス。

彼は妻と娘の死を知るやいなや、その精神的ショックから「幼児退行」に陥り、言動が全て子供のようになりました。

ティモシーは、真犯人は近所に住むジョン・クリスティーであると主張しましたが、「子供のたわごと」として誰もその言葉を信じませんでした。

執拗な取り調べの重圧に耐えきれず、ティモシーは遂に殺害を認める嘘の自供をし、たった3日行われた裁判の後に絞首刑が執行されたのです。

その5年後…。

先ほどのジョン・クリスティーが少なくとも8人の女性を殺害した容疑で逮捕されます。

その時、クリスティーはエヴァンス母娘の殺害を認めたのでした。

後の調べで、この男はエヴァンス一家が引っ越してくる前から既に連続殺人に手を染めていたことも分かりました。

3 髪の毛のDNA

髪の毛

1921年の大晦日、オーストラリアのメルボルンの路地でアルマ・ターシュクという12歳の子供の死体が発見されました。

複数の容疑者の中から、事件現場の近くでワインバーを営むコリン・キャンベル・ロスを警察が逮捕。

コリンには事件発生時に店にいたというアリバイがあったのですが、彼の自宅からアルマのものに似た色の髪の毛が発見されたことで死刑が確定

1922年4月22日、苦痛が増すような通常とは異なる方法でコリンの絞首刑が執行されました。

ところが、それから76年後の1998年、DNA検査によりコリン宅で見つかった髪の毛はアルマの物ではないことが判明し、彼の無実が証明されたのです。

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4 息子をかばった末の絞首刑

斧

1799年にメキシコで生まれたチピタ・ロドリゲスは、若い頃に父親とともにアメリカのテキサス州に渡り、その後は父親の経営する宿泊施設を手伝っていました。

その父親が亡くなった後は彼女が仕事を引き継ぎ、利用客からの評判はそれまでと変わりなく上々だったようです。

しかしある時、斧で惨殺された宿泊客の死体が近くの川で発見され、彼女の運命が変わります。

被害者の所持品から600ドル相当の金塊が消えていたことから強盗事件であると考えられ、第一容疑者としてロドリゲスが裁判にかけられることに。

終始無罪を主張していたものの死刑判決が下され、1863年11月13日に彼女の絞首刑が執行されました。

ちなみに、このとき少なくとも一人が棺の中からロドリゲスの呻き声を聞いたとされています。

後の調べでこの事件の真犯人は彼女の息子である疑いが強まり、現在ではロドリゲスは息子をかばうために裁判で決してそのことに触れなかったのだろうと見られています。

5 最も幸せな死刑囚

電車

1936年コロラド州プエブロで、15歳の少女が殺される事件が発生。

第一容疑者としてフランク・アグィラーという男が逮捕されましたが、この時ジョー・アリディという20歳の男性も同じ事件の容疑者として逮捕されたのです。

しかし、ジョーは知的障害を抱えており、その知能指数はわずか46でした。

彼は事件とは無関係でしたが、後の裁判で有罪になり、死刑が確定

ジョーは刑務所内で、看守から与えられたおもちゃの電車で遊びながら死刑が執行されるまでの日々を過ごし、「最も幸せな死刑囚」と言われていました。

23歳の若さでガス室に送られ、恐らくは死刑の意味すら理解していなかったジョーが「最後の食事」としてリクエストしたのはアイスクリームだったそうです。

この死刑執行から72年後、ようやくジョーの身の潔白が公的に証明されました。

6 謎のペリー親子

町

1660年、ロンドン中心部のカムデン・タウンで、ウィリアム・ハリソンが仕事で家を出たきり行方が知れなくなりました。

そこで彼の妻は、使用人のジョン・ペリーに捜索を命じます。

しかし、そのペリーも一向に戻ってくる気配が無く、今度はハリソンの息子が捜索に出ます。

すると、彼は途中でペリーとばったり遭遇

ペリーの話では、ウィリアムの姿はどこにも見当たらなかったとのこと。

仕方なく二人で帰路につくとウィリアムの物と思しき、血で汚れた帽子を発見。

ウィリアムは何者かに殺害された可能性が高いことが分かり、町の人たちの協力の下大捜索が開始されました。

道

しかし、結局手掛かりは何も得られず。

すると、最初に捜索に出たジョン・ペリーがここで衝撃的な告白をしました。

彼は家賃を工面するのに困り、母親と弟の3人でウィリアムを殺害し、金を奪ったというのです。

この証言に基づき、3人には絞首刑が執行されました。

ところが…。

その2年後、驚くことに殺されたはずのウィリアム・ハリソン本人が町に帰って来たのです。

彼の話では町から失踪した日、突然見知らぬ連中に馬で連れ去られ、その後はトルコに送られて奴隷のように扱われていたとのことでした。

この話が真実かどうかはともかく、ペリー親子は何故ウィリアムを殺害したという嘘の供述までして極刑に甘んじたのか。

これは今でもこの事件最大の謎となっています。

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