金のためなら容赦なく標的の命を奪う、殺し屋たちの人生をご紹介します。
「殺し屋」と聞いてすぐに思いつくのは、筆者の場合、『ゴルゴ13』です。
残念ながら、原作者のさいとう・たかを先生は他界されました。
しかし、作品自体は今後も継続します。
デューク東郷は架空の存在ですが、現実にも、驚くべき存在感を放つ殺し屋はいるのです。
〈originally posted on March 18,2017〉
1 昼間は歯科医、夜は殺し屋
1927年、米国ミズーリ州セントルイスで生まれたグレノン・イングルマンは、父親が電車の車掌として働く、ごく普通の家庭で育ちました。
比較的まじめな学生時代を送り、歯科医を志すようになった彼は、必要な資格を取って地元で歯科医院を開業します。
しかし、実はイングルマンの本性は、「人殺し」。
彼は、人を殺すときに良心の呵責を感じることは微塵もありません。
イングルマンは、30年以上にわたって7人を暗殺したとされていますが、実際に彼が殺した正確な数は分かっていません。
彼に人殺しの依頼をした人々は、多くの場合、ターゲットとなる人物の配偶者、友人、職場の同僚など。
イングルマンの「初仕事」は、彼の元妻であるエドナから依頼されました。
ターゲットは、彼女の再婚相手。
27歳の夫が死んだことでエドナが手に入れた保険金が、彼にとって初の報酬でした。
二人目のターゲットは、仕事上でつながりのあったエリック・フレイ。
殺害方法はやや常軌を逸しており、井戸に突き落としてから、その中へダイナマイトを投下して爆破。
その後は、エリックの生命保険金をその未亡人と山分けです。
3人目の犠牲者であるピーター・ハームも、彼の妻からの依頼を受けてイングルマンが亡き者にしました。
彼に殺された最後の犠牲者とされているのは、セントルイスで歯科技工士をしていたソフィー・バーレラ。
バーレラに多額の借金をしていたイングルマンは、彼女から訴訟を起こされそうになり、あるとき、バーレラが車の中にいるときを狙ってその車を爆破したのです。
決して捜査の対象とならなかったイングルマンが、後にアッサリ逮捕されてしまった原因は、彼のガールフレンド。
イングルマンに人殺しの経験があることを、そのガールフレンドが警察に話したことで本格的な捜査が始まり、逮捕に結びつきました。
1999年、彼は糖尿病が原因で、獄中で亡くなっています。
2 謎を残して消えた殺し屋
オーストラリアの犯罪史に名を残すクリストファー・フラネリーは、死体の山を築いて莫大な金を手に入れた殺し屋です。
金さえ払えば、消したい相手の「死」を簡単に実現できるところから彼に付いたあだ名が、レンタカーならぬ「レンタキル」。
そんなフラネリーは14歳から窃盗や強盗を繰り返し、人生そのものが犯罪で占められていました。
1979年、メルボルンのナイトクラブで用心棒の仕事をしていた彼は、迷惑な客をぶん殴る毎日に飽き足らず、ついに殺し屋稼業を始めるようになります。
フラネリーが35000ドルで請け負った「初仕事」のターゲットは、ロジャー・ウィルソンという弁護士。
車で誘拐し、人気のない荒れ地で銃殺しました。
この事件の裁判でフラネリーは被告人席に立つことになりますが、遺体が発見されなかったこともあって無罪に。
また、彼は別の事件でも起訴されますが、医師に虚偽の診断書を書かせ、健康上の理由により裁判を免れています。
その後、フラネリーはシドニーに移り住み、その地を牛耳っていたジョージ・フリーマンの用心棒となることに。
この当時の彼は、ターゲットの腕や足に個別の金額を設定し、子供を「特別料金」にしていたとか。
1980年代にシドニーの暗黒街でギャングどうしの抗争が勃発した際には、13人以上を始末。
最も警戒すべき殺し屋として認識されていたフラネリーは、それだけに多くの敵をつくりました。
1985年1月には、自宅の外で銃撃を受けます。
このときは、辛うじて命は助かりました。
しかし、同年5月9日、フリーマンからの電話を受けて自宅を出たきり、行方が分からなくなったのです。
彼の遺体はいまだに発見されていません。
2013年、シドニー南部の砂丘で見つけられた白骨が、フラネリーのものである可能性が高いとして注目されましたが、DNA鑑定の結果それも否定されています。
3 病的な虚言癖の殺し屋
ジョン・チャイルズは、イギリスの闇社会で最も恐れられた殺し屋の一人です。
彼にインタビューしたことのあるライターの一人によれば、
「チャイルズが笑うのは、人殺しの話をしているときだけ」
なのだとか。
1974年11月、ジョージ・ブレットという名の男を、1800ポンドの報酬と引き換えに銃殺してからチャイルズの殺し屋人生が始まりました。
つづいて彼は、福祉施設の管理人だったフレッド・シャーウッドを4000ポンドの報酬で殺害。
判明しているだけで、チャイルズは計6人を殺していますが、奇妙なことに、被害者の遺体が発見されることは決してありませんでした。
これは、彼が自宅ですべて焼却していたからだと見られています。
1980年、チャイルズは遂に逮捕され、裁判で仮釈放なしの終身刑が言い渡されました。
これで、彼の殺し屋人生が終わりを告げることとなったのですが、ただでは終わりません。
彼は、テリー・ピンフォードとハリー・マッケニーという二人の指示で殺し屋の仕事をしていたと証言したのです。
チャイルズの話は極めて具体的で、細部に至るまで真実味を帯びていたため、この二人に有罪判決が下されます。
ところが、彼の話は全てでっち上げでした。
このことは裁判官をして「ジョン・チャイルズは病的な虚言癖の持ち主である」と言わしめたほど。
二人に下された有罪判決は後に覆されましたが、それは彼らが20年以上も服役してからだったのです……。
4 必ず逃亡する殺し屋
ロシアのギャングを震撼させた「スーパー・キラー」の二つ名を持つ殺し屋が、アレグザンダー・ソロニカです。
ヒットマンとしての彼の最大の特徴は「両利き」であること。
右手でも左手でも正確に銃を扱うことができるのです。
そしてもう一つの特徴が、捕らえられても必ず逃亡すること。
ソロニカは、殺し屋になるまでに2度投獄されていますが、いずれも脱獄に成功しています。
2度目に収監されたとき、ある犯罪組織のために殺し屋として生きることを決意しました。
1990年、最初のターゲットとなる、抗争相手のギャングのボスを抹殺。
その半年後、モスクワに渡ったソロニカは、またもやギャングのボスを仕留めます。
こうして闇社会の大物を次々と彼の世に送っていったことで、彼は完全に警察から目を付けられることに。
あるとき友人と市場を歩いていたところ、複数の警察官に取り囲まれます。
その瞬間、ソロニカはコートの裏に隠していた銃を取り出して警官の群れに発砲。
しかし、抵抗むなしく警官に取り押さえられ、監獄行きとなりました。
ところが、程なくして3度目の脱獄を成功させ、ギリシャへ逃亡。
その地で彼は50人程度の組織を結成し、ドラッグの取引きや殺しの請負を続けることに。
1997年2月、ロシアの犯罪組織のボスが絞殺されたというニュースがギリシャで報じられました。
その遺体がソロニカのものであるという公的な証明が無いにも関わらず、ロシアで最も悪名高い殺し屋がギリシャで死亡したと発表されたのです。
しかし、何度も逃亡に成功している彼がアッサリ殺されたことを信じない人は多く、すべてソロニカが仕組んだことではないかとする見方も有力です。
5 アイスマンと呼ばれた殺し屋
死亡時刻の特定を困難にすべく、被害者の死体をしばしば凍らせていたことから「アイスマン」の異名を持つアメリカ人の殺し屋が、リチャード・ククリンスキーです。
身長196cm、体重122kgという巨漢でもある彼をよく知る人物は、ククリンスキーのことを「一人軍隊」や「生来の悪魔」などと表現しています。
1935年に米国ニュージャージー州で生まれたククリンスキーは、幼い頃、兄弟とともに両親から激しい虐待を受けていました。
その結果、弟は10歳で他界。
兄は殺人罪と強姦罪を犯しました。
そしてククリンスキー自身は殺し屋に。
ちなみに、彼の妹だけはまともな人生を送っています。
ククリンスキーが10歳になったとき、彼はすでに動物を虐待することに快感を覚え始めました。
そして14歳のとき、地元ギャングのリーダーを亡き者に。
その後、ククリンスキーは殺し屋への道を着実に歩んでいきます。
殺し屋としてのククリンスキーは、主にニューヨークのマフィアから依頼された仕事をこなしていました。
殺し屋には珍しい彼独自のルールとして、ククリンスキーは女性と子供は決して殺さなかったとか。
つまり、アイスマンの犠牲になったのは全て男性です。
そして、仕事以外に、自分の楽しみのためだけに殺すこともありました。
これには、殺し方を研究する目的もあったようです。
彼が生涯で殺害した人数は明らかではありませんが、一説には100人から250人の間であろうとされています。
すでに殺し屋の生活が定着していた1960年、ククリンスキーは結婚します。
お相手は、犯罪社会などとはまるで縁の無いごく普通の女性。
二人の娘も生まれ、彼は何の変哲もない優しいパパを演じていました。
ククリンスキーの一家はニュージャージー州デュモンで暮らしていましたが、近所の住人はおろか、家族でさえ彼の「裏の顔」には気づいていなかったとか。
それだけに、1986年に彼が逮捕されたとき、家族は真実を知って大きな衝撃を受けたのです。
逮捕後、ククリンスキーはあるインタビューでこう語っています。
自分の行いを後悔したことは今まで一度も無い。
ただひとつ、家族を傷付けてしまったことを除いては……。
妻と子供には、何とか俺のことを許してほしいと思っている。
2006年、ククリンスキーは72歳で獄中にてこの世を去りました。