周囲に気づかれることなく、全くの別人として生きていた人々をご紹介します。
誰か別の人になって、今とは違う人生を歩みたい。
一度くらいはそんなことを考えたことがある人は少なくないでしょうが、実際にやろうとする人はまずいません。
他人になりすますこと自体のハードルが高すぎますし、何とか変装できたとしても別人の「ペルソナ」を抱えて生きるのはさらに大変です。
しかし、本当にそれを実行していた人も僅かながら存在するのです。
〈originally posted on August 15,2016〉
1 昼は警察官、夜は殺し屋
ロサンゼルスで交通取締を担当していた警察官のウィリアム・レジャーは、仲間思いで優しい性格をした、真面目な人物でした。
……少なくとも、周りの同僚からはそう見られていました。
ところが、彼の真の姿は警察官からは程遠い存在、殺し屋だったのです。
レジャーは1977年から1986年にかけて発生した3件の殺人事件に関与し、それ以外にも様々な犯罪の「黒幕」として暗躍していました。
驚くことに、この男が独自の犯罪組織を築き上げていた約10年間、同僚の誰一人として彼に不信感を抱かなかったとか。
それだけではありません。
レジャーの奥さんの職業は何と「検事」なのです。
周りに全く気づかれず、ここまで完璧に「二重生活」を送っていたのはもはや神がかっていると言えますね。
そんなレジャーですが、1991年に遂に裁判で終身刑を宣告され、この奇妙な二重生活が終わりました。
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2 生涯を男性として生きた女性
1792年にアイルランドで生まれたマーガレット・アン・バルクリーは、医者になるためにスコットランドの大学で医学を学ぶことを志します。
ただ、それは当時では男性にしか認められない選択でした。
そこで彼女は名前を「ジェイムズ・バリー」と変え、男性として生きることを決意します。
胸にテープを巻いて膨らみを目立たなくし、男装をすることでとりあえずは上手く性別をごまかせていました。
しかし、女性特有の高い声などから怪しまれてしまうことも一再ならずあったとか。
そんなとき、彼女は自分に疑いの目を向ける相手を恫喝して全力で疑惑を否定し、一度は「決闘」にまで発展したこともありました。
そこまで強固な意思を持っていた「バリー」は何とか大学を卒業し、見事に医師の肩書を手に入れます。
ちなみに彼女はイギリスで初めて医師になった「女性」なのです。
1813年から約50年間は軍医として活動しながらインドや南アフリカへと渡り、晩年はイギリスで暮らしていました。
そして、バリーが実は女性であったことが公になったのは、彼女が亡くなってからのことなのです。
3 ある白血病患者のブログ
1999年、「ケイシー・ニコル」という19歳の女子学生のブログがネット上で大きな話題となりました。
ケイシーは白血病を患っており、しかも末期状態だったのです。
にも関わらず、非常に前向きな考えに満ちた彼女の文章は多くの読者の感動を呼び、励ましのメッセージが絶えませんでした。
ところが、2001年に彼女は亡くなってしまいます。
ブログの読者がこの事実を知ったときの驚きと動揺は相当なものだったでしょう。
しかし、厳密に言えば、ケイシーは「亡くなった」のではなく、最初から存在していなかったのです。
実は、ケイシー・ニコルというのは架空の人物で、そのケイシーに成りきってブログを書いていたのは、デビー・スウェンソン(40)という二児の母親でした。
スウェンソンは、自分のブログなのだから何を書こうと自由だという考えのもと、軽い気持ちでこのブログを始めたそうなのですが、これほど大きな反響があるとは想像していなかったようです。
ところで、スウェンソンの嘘は何故バレてしまったのか。
その原因は、彼女が一人二役を演じていたところにありました。
スウェンソンは問題のブログに、ケイシーとしてだけでなく、その「母親」としても記事を投稿していたのですが、別人であるはずの二人が同じスペルミスをしていたり、19歳のケイシーが60年代の歌に詳しかったりと、おかしな部分がいくつかあったのです。
4 毒舌すぎる新聞記者
20世紀前半まで発行されていたロンドンの新聞に「モーニング・ポスト」というのがあるのですが、その紙面で1899年からある匿名の記者が非常に偏った内容の記事を書き始めました。
どの辺りが偏っているのかというと、当時のオーストラリア首相のことを容赦なくこき下ろしていたのです。
例えば、ある記事では「机上の空論ばかり述べて実現できもしない夢を追っている」などと批判していました。
一国の首相をそこまで集中攻撃するからには、この記者は首相に個人的な恨みでもあったのかと思ってしまいそうですが、そこには意外な真相が。
その記者は本名をアルフレッド・ディーキンというのですが、実は彼こそがオーストラリアの首相本人だったのです。
(ウィキペディアより)
事の発端は、モーニング・ポストから「外国特派員」としての仕事を依頼されたことにあります。
そのときはまだ首相にはなっていませんでしたが、1903年に第2代首相に就任してからも、彼は秘密裡に記者の仕事を続けていました。
そのことを知っていたのは、編集者や家族などわずか数名だったそうです。
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5 黒人になった白人ジャーナリスト
目的を達成するために性別を変える人もいれば、人種を変えてしまう人もいます。
1959年、白人ジャーナリストのジョン・ハワード・グリフィンは、黒人差別の実態を取材するために自ら「黒人」になって、人種差別が根強く残るアメリカ最南端のディープサウスでの生活を始めました。
彼は肌の色を黒人のそれと全く同じにするべく、毎日何時間も紫外線の光を浴びたそうです。
黒人として生活していると、飲食店やバス停、トイレなど至る所で白人から暴言を吐かれ、追い出されるといった「試練」が彼を待ち受けていました。
さらに、白人たちはどういうわけか黒人の「夜の営み」に関して興味津々だったそうです。
こうして差別と偏見に満ちた地域で6週間を過ごし、その体験をグリフィンは『Black Like Me』という本にまとめました。
この本はベストセラーとなり、後に映画化もされています。