自分が犯してもいない罪
によって刑務所に入れられる。
人生には色々な罠が待ち構えているものですが、この罠だけは何としても避けたい。
真剣にそう思います。
後になって、無実であることを証明できたとしても、その頃には、もう以前の生活は取り戻せなくなっているでしょう。
「運が悪かった」で済ませるには余りにも残酷ですが、しかしながら、「運が悪かった」で済ませる以外には為す術が無い場合もあります。
〈originally posted on June 5,2020〉
1 あるフットボール選手の悲劇
カナディアン・フットボール・リーグでラインバッカーとして活躍していた、オーランド・ボーウェンという選手は、警察官によって人生を狂わされた人です。
2004年3月26日の夜、トロント・アルゴノーツというチームとの契約締結を果たした彼は、あるナイトクラブで、フットボール選手としての新たなスタートを祝っていました。
しかし、その店を出たとき、ボーウェンを悪夢が襲います。
いきなり、面識の無い二人の男が彼の方に近づいてきて、「ドラッグが欲しいんだが」と一言。
ボーウェンは、何のことか訳が分からず、そんな物は持っていないと反論。
にも関わらず、男たちは一向に引き下がる様子がありません。
埒が明かないので、ボーウェンはその場から足早に立ち去りました。
すると、背後から聞こえてきたのは、「止まれ!さもなくば撃つ!」という怒声。
その警告の仕方は、明らかに警察官のそれです。
何かの間違いで、自分がドラッグ密売人だと誤解されていることを悟ったボーウェンは、すぐに身の潔白を証明しようとします。
しかし、そんな彼を待っていたのは、警察官による執拗な暴行、そして逮捕。
容疑は公務執行妨害。
さらに……。
コカインの不法所持です。
持ってもいないコカインが原因で逮捕。
つまり彼は、完全にはめられました。
さらに、裁判において警察官の提示したわずかな証拠だけで、ボーウェンはあっさり有罪に。
それから約1年後、犯罪者の汚名を着せられた彼を救うことになったのは、皮肉なことに、彼をはめた警察官の一人であるシェルドン・クック。
この男、自らが手を染めていたコカイン密売がバレて、逮捕されたのです。
これをきっかけに、ようやくボーウェンの無実が証明され、彼は自由の身になりました。
しかしながら、これで全て解決、ではありません。
警察官から受けた激しい暴行が災いし、彼は既に、フットボール選手としての生命を絶たれていたのです。
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2 元カレの逆恨みで刑務所行きになった女性
ニューヨーク在住のシーモーナ・スーマサーという女性には、付き合って数年になる彼氏がいました。
しかし、二人の関係は次第に悪化。
そして2009年3月、彼氏のジェリー・ラムラタンは、彼女に性的暴行を加えます。
シーモーナは、この事実を警察に打ち明けました。
これにより、ラムラタンは一旦は逮捕されましたが、後に保釈。
この保釈をきっかけにして、シーモーナに降りかかる不幸を、彼女は予想できなかったことでしょう。
同年9月、一人の男性が、手錠で両手をポールに固定され、身動きが取れなくなっているのが発見されます。
その男性の話によると、見知らぬ女に襲われて、現金を奪われたとのこと。
彼が警察に語った、犯人の女の特徴は、シーモーナに酷似していました。
それから6ヶ月後、同じ目に遭わされた二人目の被害者が発見され、さらにその3ヶ月後には、三人目の被害者が。
そして、犯人の容貌についての彼らの供述は、一様に、シーモーナを指し示していたのです。
しかも、三人目の被害者は、犯人の乗っていた車のナンバーまで覚えており、これがシーモーナの車のものとピタリ一致。
当然の成り行きとして、シーモーナは逮捕されました。
刑務所の中で裁判を待つ間、彼女は、ラムラタンによってはめられたのだと訴え続けましたが、三件もの強盗事件をでっち上げる男がいるなどとは誰も思わず、この訴えは無視されることに。
そんな彼女は、保釈金を支払う余裕が無く、刑務所での虚しい日々が繰り返されるばかり。
しかし、シーモーナの逮捕から約7ヶ月が経過したとき、警察へのタレコミによって、ラムラタンが隠し持っている「秘密のケータイ」の存在が発覚。
そのケータイの発信履歴を調べると、ラムラタンが、強盗事件の目撃者らと連絡を取っていたことが分かりました。
それらの目撃者に、警察が改めて話を聞いたところ、彼らは皆、ラムラタンのでっち上げに協力していたことを告白。
その後、シーモーナは釈放され、一方のラムラタンには、性的暴行の罪も併せて、懲役32年の判決が下されました。
これで、彼女はやっと自由になれたわけですが、しかし、7ヶ月の刑務所暮らしによって、自分が経営していたレストランを失う羽目になったのです。
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3 無実の罪で30年間を奪われた黒人男性
1985年7月某日、米国アラバマ州で倉庫業を営んでいた、アンソニー・レイ・ヒントン(当時29歳)の自宅に、突然警察がやって来ました。
庭で芝刈りをしている彼を見るやいなや、警察官はヒントンを、短銃による殺人容疑で逮捕。
これは、不正確な証言に基づくずさんな捜査が生んだ、典型的な誤認逮捕でした。
その殺人事件があったとされる時刻、ヒントンは、犯行現場から数キロメートル離れた職場にいたので、自分にかけられた疑いはすぐに晴れると、彼はそう確信していたのです。
ところが、警察署に向かうパトカーの中で、警察官がヒントンに放った台詞に、彼は愕然とすることになります。
「お前が殺ったかどうかなんて俺にはどうでもいい」
「確実にお前を有罪にしてやる」
しかし、このときの彼は、まだ一縷の望みを捨ててはいませんでした。
アメリカの司法制度が、必ず彼を救ってくれると、信じていたのです。
そんなヒントンを地獄の底に突き落としたのは、その後、ある刑事が彼に語った、次のような「5つの事」。
「1つ目。俺たちはお前を有罪にさせる。黒人であるお前を」
「2つ目。ある白人が、お前が撃ったと証言することになっている」
「3つ目。この事件を担当する検事は白人だ」
「4つ目。裁判官も白人だ」
「そして5つ目。陪審員は全員白人だ」
事件の裁判が始まると、検事のボブ・マクレガーは、ヒントンの実家にある、彼の母親のピストルが凶器として使われたと主張。
この裁判では、目撃証人が乏しく、証拠となる指紋も存在しないにも関わらず、マクレガーのこの主張が覆ることは、ありませんでした。
1986年9月17日、ヒントンに宣告されたのは、死刑。
死刑囚となった彼は、刑務所の中で、自分の刑が執行されることへの恐怖心に苛まれる日々を送っていたとか。
実に30年近くも。
しかし、2015年4月3日、被害者に致命傷を与えた凶器は、ヒントンの母親の銃ではないことが証明され、彼の判決が遂に覆りました。
それを知ったときのヒントンの心境は、彼の言葉を借りると、次の通りです。
「父を失い、母を失い、3人の姉妹を失い、住む場所も無く、着る服も無く、金も無い」
「私には何も残されていなかった」
「けれど、自分が犯してもいない罪で死刑を待つよりは、裸のまま自由な身でいる方がいい」