現在は、「置き配」というのが当たり前になっています。
もともとはウイルス感染拡大防止という目的から始まったものですが、配達する側にとっては、相手が不在であっても持ち帰る必要が無いというメリットがあります。
一方、荷物を受け取る側にとって、置き配は、盗難に遭うかもしれないという不安があるでしょう。
しかし、これからご紹介するような配達物は、まず盗まれる心配はありません……。
〈originally posted on September 23,2016〉
1 子供
1913年にアメリカで小包配達のサービスが開始されたとき、一体どんな物までなら「小包」として許されるのかを人々は模索しました。
そして、サービス開始からしばらくして「子供もアリじゃね?」と考える人が出てきたのです。
オハイオ州在住のある夫婦は、息子を祖母の元に行かせるのに、電車賃よりも配達料金の方がはるかに安上がりなのに目を付け、配達で送り届けようとしました。
もちろん、「小包」とはいっても実際に子供を箱に詰め込むことは無かったようです。
通常、配達物は宛先の住所を管轄する郵便局に一晩置かれるのですが、さすがに小さな子どもを放置するわけにもいかず、郵便局長が目的地まで送り届けることもあったとか。
こういった常識外れの要求に対し、郵便局側はすぐに止めるよう警告を発しましたが、同様のケースはしばらく続いたそうです。
中には赤ん坊を配達しようとする人もいたというから驚きです。
2 ミサイル
これは、厳密に言えばミサイル自体が配達物なのではなく、ミサイルを使って郵便物を配達したというもの。
1936年、アメリカで、ニューヨーク州グリーンウッド・レイクから約600m離れたニュージャージー州ヒューイットに向けて、郵便物を積んだ2発のミサイルが発射されました。
ミサイルは氷の張った湖を超えて目的地に到達し、氷上を滑って停止。
その後、配達物は無事に回収されました。
このとき郵便局長を務めていたアーサー・サマーフィールドは、後にこう語っています。
誘導ミサイルを使えば、郵便物をニューヨークからカリフォルニア、イングランド、インドそしてオーストラリアに1時間とかからず配達できるようになるだろう。
人類が月面に降り立つより先に実現出来る。
「ミサイル便」を使った例は他にもあり、アメリカ海軍の潜水艦バーベロは、メイポート海軍補給基地に向けて、3000通の手紙を積んだミサイルを放ちました。
しかし、サマーフィールドの予想に反してミサイル便が定着することはなかったのです。
その理由は、郵便配達の手段としてはあまりにもコストがかかりすぎたためです。
3 不気味な手紙
米国オハイオ州にある人口13000の小さな町サークルヴィルでは、何千人という住民の自宅に匿名の差出人から不気味な手紙が届くようになりました。
この奇妙な出来事は1973年から毎年起こり、手紙は必ず「ブロック体」の文字を使って書かれ、その内容は個人の私生活などに触れながら攻撃的な文章を連ねたものでした。
ある年、ロン・ギレスピーという男性の所にもこの手紙が届きます。
その内容は、彼の妻であるメアリーを根拠の無い話で侮辱するものでした。
さらに、1977年8月19日には手紙の差出人と思われる人物から電話が。
彼はその電話の内容から差出人の正体に当たりを付け、直接会って話をつけるべく、銃を持って家を出ました。
しかし、彼の乗った車は車道を外れて衝突事故を起こし、ロンは帰らぬ人に。
警察は交通事故だと結論づけましたが、どういうわけかロンの銃から弾が一発発射されていたのです。
その後、今度はメアリーが何者かに危害を加えられそうになるのですが、そのとき現場に残された証拠から犯人が特定され、その容疑者はすぐに逮捕されました。
これにより、サークルヴィルの町に毎年何千通もの不気味な手紙が届くことも無くなる、と誰もが思ったことでしょう。
ところが、この犯人が独房にいる間も、手紙は送られ続けたのです。
結局、手紙は1994年まで毎年キッチリ配達され、送り主の正体が明らかになることはありませんでした。
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4 自分自身
1815年に米国ヴァージニア州で奴隷の家庭に生まれたヘンリー・ブラウンという男性は、15歳からタバコ製造工場で働いていました。
彼は結婚して3人の子供がいましたが、あるとき妻と子供全員が新たな所有者へと売られることに。
これに絶望したブラウンは、奴隷制度の無いフィラデルフィアに逃亡することを決意します。
決行当日、彼は仕事を休むために自分の手に硫酸をかけて重度の火傷を負わせました。
そして仲間の協力の下、ブラウンは箱の中に詰められて「荷物」として配送されたのです。
箱の大きさは90cm×80cm×60cmで、中に持ち込んだのは少量の水とビスケット数枚だけ。
(ウィキペディアより)
この方法でブラウンは無事にフィラデルフィアにたどり着き、遂に自由な生活を手に入れます。
一つの箱で人生を変えたことから、やがて彼はヘンリー・ボックス・ブラウンと呼ばれるようになりました。
彼の成功を受けて、同じ手段を使って逃亡を考える者が当然のごとく出てきたわけですが、そのときには奴隷に対する取締りが厳しくなり、この方法はもう使えなくなっていたのです。
その原因を作ったのは他でもないブラウン本人。
彼は自らの成功談を吹聴し、おまけに自叙伝を2冊も出版したため、奴隷が逃亡することへの警戒心を煽りすぎてしまったのです。