当サイトでは、女性が遭遇する問題や、ジェンダーについて書いた記事がいくつかあります。
ジェンダーに関する話題は、昨今、特に重要性を増しており、学校教育でも積極的にジェンダー論について考える機会を設けるべきでしょう。
ただし、ここに一つ大きな問題があります、
それは、アニメやゲームを題材にしてジェンダー論を教えようとする傾向が見られること。
アニメやゲームといった、若い世代に身近なものを使う方が、分かりやすく教えられるという考えがあるのでしょう。
しかし、これは大きな誤りです。
〈originally posted on April 11, 2022〉
1 作品への誤解を招く
かなり前の話ですが、とある大学教授が、アニメを題材にして小学生にジェンダー論を教えたという記事を読んだことがあります。
その教授が採り上げたアニメは、『クレヨンしんちゃん』。
ひろしとみさえの双方の両親が実家から突然野原家にやって来たために、みさえが大慌てで料理を作るのですが、ひろしは両親の相手をするだけ、というエピソードを紹介した上で、教授は生徒たちにこう言うのです。
「このアニメでは、料理を担当するのは女性だ、というように、特定の役割を女性に押し付けています」
僕はこれを読んだとき、呆れて口がぽっかーんと約7分ほど開きっぱなしになって口腔がカサカサになりました。
『クレヨンしんちゃん』を観たことのある人なら分かると思うのですが、野原家で最も発言力を持っているのは、間違いなく妻のみさえです。
夫のひろしは、基本的にみさえに頭が上がらない。
何か一つでも文句を言おうものなら、みさえから猛烈な反撃を受け、しんのすけにこう言われるのです。
「ひとこと言うと倍になって返ってきますなぁ。父ちゃんの負け」
みさえがひろしを容赦なく口撃する場面は、世の中の主婦が夫に対して抱いている不満を代弁しているといえるでしょう。
『クレヨンしんちゃん』の膨大な数のエピソードの中には、なんだかんだで、ひろしがこき使われる展開が数多くあります。
にも関わらず、みさえが料理を作っているエピソードだけに着目し、このアニメに女性蔑視のレッテルを貼るのは如何なものか。
さらに言えば、このエピソードでは、ひろしがみさえの料理を手伝うことは「出来ない」のです。
何故なら、みさえの父であるよし治は亭主関白な面があるので、仮にひろしが料理をしているところを目撃すれば、激怒するのは必至。
その面倒くさい状況になるのを避けるために、みさえは黙々と料理に専念せざるを得ない、と考えるのが自然。
両親がやって来るということが、野原家にとってはそれだけ非常事態なわけで、そこがこのエピソードの面白みでもあります。
そこにジェンダー論を持ちこんでしまっては、作品の持ち味が台無しでしょう。
作品の楽しみ方を大幅に歪めてまで、アニメを題材にしてジェンダー論を教育する必要があるのでしょうか。
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2 キャラクターの一面だけを切り取るのはフェアではない
先日、毎日新聞に、高校教科書検定の記事が掲載されていました。
それによると、身近な話題を通じてジェンダー論を扱った記述が、複数の教科書に盛り込まれたとのこと。
個人的に気になったのは、「スーパーマリオ」を採り上げたものがあるという点です。
記事によれば、マリオがピーチ姫を助ける物語は、
「伝統的な男女の性別役割分業観に基づいている」
と、論理国語において説明されているのだとか。
僕はこれを読んだとき、呆れて頭頂部がパッカーンと開いて小一時間ほど気を失いそうになりました。
マリオが……性差別的……だと?
実は、スーパーマリオが性差別的だという指摘はこれが初めてではなく、6年前に既にありました(その意味でこの話題はけっこう古い)。
2016年に任天堂が「スーパーマリオ・ラン」というスマホアプリをリリースしたとき、『ニューヨーク・タイムズ』誌に「スーパーマリオ・ランのあまりスーパーでないジェンダー観」と題したコラムが掲載されたのです。
このゲームのオープニングでピーチ姫は、ケーキを焼いて待っていると言ってマリオをパーティに招待します。
マリオがピーチの所へ向かおうとした矢先、クッパが現れ、ピーチ姫をケーキもろともいただいて行くと宣言。
そしてゲーム開始、という流れ。
この部分についてコラムでは、
「初代スーパーマリオが発売された1985年ならいざ知らず、今の時代にこれだけ古臭い、時代錯誤で、固定化されたジェンダー観は理解に苦しむ」
と痛烈に批判。
このコラムのライターを含め、マリオのゲームが性差別的だとする人の論拠は、主に次の一点に集約されます。
それは、「毎度毎度クッパに誘拐されるだけで、マリオが助けるまで自分では何もできないピーチ姫」という点です。
そんなピーチ姫は、女性蔑視の産物である、と。
大いに問題である、と。
確かに、「さらわれた姫を勇者が救う」などという設定は、かなり時代遅れ。
しかし、初代スーパーマリオの開発時点で、「クッパはピーチ姫を連れ去り、マリオはピーチ姫を救出する」という設定にしてしまった以上、三者の関係を変えるのは容易ではないでしょう。
『ドラえもん』の中で、何十年経とうとジャイアンがのび太を追い回すように、時代が変わってもクッパはピーチ姫を誘拐せざるを得ません。
これは、長く続いている作品の宿命です。
そして、誘拐されたピーチ姫が、マリオに救出されるのを待つことしかできないのは、ピーチが「女性」だからではなく、「人間」だからです。
ピーチを助けるマリオは、明らかに人間ではない能力を持っていますが、そのマリオでさえ、クッパに1ドットでも触れると即死します。
口から炎を吐き、触れた者を即死させるチート体質を持った突然変異の巨大亀に、普通の人間が出来ることなどありません。
その点を意図的に度外視し、マリオは助ける人、ピーチは助けられるだけの人、というように、各キャラクターの一面だけを、ジェンダー論に取り込みやすいように切り取るのはフェアではないでしょう。
ちなみに、任天堂のゲーム全体で見れば、ピーチは決して「何もできないお姫様」などではないのです。
上述の「スーパーマリオ・ラン」では、ピーチ姫を使用して遊ぶことも出来ますし(この場合はキノピオを救出する)、「マリオカート」ではピーチ姫がコースを爆走して敵車を蹴散らし、「大乱闘スマッシュブラザーズ」では文字通り大乱闘して相手をボコりますから。
3 ゲームを題材にすると論点がブレる
ファミコン時代、スーファミ時代のゲームには、「男性主人公が姫を救う」といった設定がかなり多く見られます。
「ドラゴンクエスト」では、勇者ロトの血を受け継ぐ主人公が、竜王に囚われた姫を(地道なレベル上げにより)救出。
「ドルアーガの塔」では、塔の最上階で石にされている恋人のカイを(鬼畜な謎を解きながら)ギルが救出。
「魔界村」では、サタンに連れ去られたプリンセスを(時にはパンツ一丁で)騎士アーサーが救出。
その他にも、「忍者じゃじゃ丸くん(さくら姫を救出)」「がんばれゴエモン~ゆき姫救出絵巻(タイトルのまま)」「キングスナイト(クレア姫を救出)」「ゼルダの伝説(ゼルダ姫を救出)」などなど。
RPGにしろアクションゲームにしろ、このような設定は枚挙にいとまがありません。
余談ですが、ファミコン時代でも、女性主人公が悪を倒すゲームはそれなりにあります(「忍者プリンセス」「ワルキューレの伝説」「ワンダーモモ」など)。
では、上記のような「囚われの姫救出」設定のゲームは全て、「伝統的な男女の性別役割分業観」に基づいているのか。
そう捉えることも不可能ではないでしょう。
しかしそう捉えることは、およそマトモではないと個人的には思います。
架空の世界で、架空のキャラクター達が活躍するゲームの、「勇者が姫を救出」といういかにもゲーム的な設定を狙い撃ちにして「伝統的な男女の~」といった大仰な言葉で性差を論じることにどれほどの意味があるのか。
底なしのアフォである僕にはサッパリ分かりません。
分からないことはまだあります。
例えば、「ドルアーガの塔」では、ギルの恋人であるカイは救出されるだけですが、続編の「イシターの復活」では、ギルと共に敵と戦うようになります。
このような展開が用意されていても、やはり「ドルアーガの塔」は性差別的なのか。
また、例えば男性主人公によって救出されるのが、同じく男性キャラであれば、性差別の問題とは無縁になるのか。
しかし、連れ去られるのも、それを救うのも男性キャラばかりだと、
「過酷な運命に耐えるのは常に男の役割」
という見方もできてしまう。
女性は危険な状況から極力遠ざけられ、危険にさらされるのはいつも男性という印象を与えてしまう。
これはこれで女性差別につながるのではないでしょうか。
では、その男性キャラを救い出すのが「女性の勇者」だったらどうか。
これはマリオとピーチの関係の真逆であり、ジェンダー論的に何も問題なさそうですが、しかし、女性主人公が囚われの男を救う展開ばかりだと、
「何もしない男のために常に女性が苦労させられるのは、家庭内における伝統的な男女の性別役割分業観を投影している」
と切り捨てることも可能ではないのか。
ひねくれた見方だと思われるかも知れませんが、先述の論理国語の教科書では、
「違う角度から世界を捉える視点に接すること」
の重要性を説いています。
それに従えば、上記のような捉え方も無理ではないでしょう。
さらに、連れ去られるのが「トランスジェンダー」のキャラだったら……。
疑問はいくらでも出てきます。
こういった疑問が生じるのは、ゲームという架空の世界を題材にして現実問題のジェンダーを論じるからに他なりません。
現実社会で起きる問題は、可能な限り、現実社会の事例を使って教えるべきでしょう。
そうしないと、ゲーム特有の設定などが余計な「ノイズ」となって、ジェンダー論の論点がブレる可能性があります。
ゲームは我々の生活に身近な存在ですが、ゲームの中のシナリオやキャラクター設定は必ずしも身近なものではありません。
むしろ、現実にはありえない要素を楽しむのがゲームだと言えましょう。
若者による暴力犯罪が多発すると、頭の良い学者先生たちは、ゲームと現実の区別がつかない人が増えている、と言って、よくゲームを批判していました。
しかし、ジェンダー論になると、頭の良い学者先生たちが(都合よく)ゲームと現実の区別をつけないのは何とも滑稽な話です。
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4 「最大の疑問」
ファミコン時代とは異なり、今は、「男性主人公がヒロインを助ける」という単純なストーリーのゲームはほとんど見られません。
むしろ、強い女性キャラクターが活躍するゲームの方が多いですし、人気があります。
アニメもまたしかり。
こういう状況で、仮に100歩、いや65535歩譲ってマリオのゲームが性差別的であるとして、それは社会にとってどれだけ大きな問題と言えるのか。
大半のゲームが女性キャラクターを強い存在として描いている中、特定のメーカーの特定のゲームが、現代のジェンダー観にそぐわない女性キャラクターを登場させることは、わざわざ教科書で採り上げるほどのことなのでしょうか。
大いに疑問です。
そして、ここまで書いてきて沸々とわいてくる最大の疑問は、この記事が4500字にも及ぶ長文になっているのは、ちと長すぎやしないか、ということなのです……。