「学歴なんて大した問題じゃないですよ」
こういう台詞を東大やハーバード大を卒業した人が言うと、恐ろしいまでの説得力を持ちます。
しかし、トップクラスの難関大学を出ていなくても、それどころか、ほとんどまともに教育を受けていない人でも、その事実を物ともせずに成功した人もいます。
そういう人たちにとって、学校はあまり意味の無い存在だったと言えるかもしれません。
もちろん、彼らはある種の「天才」だったからこそ学校に行かずとも成功したわけで、多くの人はやはり普通に進学した方が無難でしょう(と、書いておいた方が無難な気がします……)。
〈originally posted on June 18,2019〉
1 マイケル・ファラデー
スマホの無い生活なんて想像できないという人は多いはず。
そのスマホも、バッテリーが切れた後に充電できなければただの薄い板と化します。
スマホに限らず、身の周りのあらゆる物が電気で駆動している現代では、電気の無い生活はありえません。
そして、電気にまつわる技術発展に多大な貢献をしたのが、イギリス人の化学者であるマイケル・ファラデー。
大げさでなく、我々は皆ファラデーに感謝すべきかもしれません。
こういう偉大な学者は、幼い頃から天才的な一面を見せて神童などと呼ばれていたりするものですが、彼の場合は全くその逆です。
貧しい家庭に生まれたファラデー少年は、学校に通うための金すら十分にありませんでした。
そこで、14歳のときから製本所で見習いとして働き始め、同年代の子たちが学校で勉強している間もずっと仕事の毎日。
そんな彼は、製本作業の最中に、本を盗み読みしていたのです。
様々な分野の本をタダで読み漁っていくうち、彼は科学の世界に強い興味を抱くようになりました。
製本所に勤め始めてから7年後、ファラデーは、当時ロンドンで最も高名な科学者であったハンフリー・デービーに、アシスタントとして雇ってほしいと直訴します。
しかしながら彼は、科学に興味はあったものの、専門的な勉強の経験はほぼゼロ。
そんな人間を雇えるはずもなく、彼はあっさり申出を断られました。
その翌年。
ファラデーは念願叶ってデービーのアシスタントとしての仕事に就きます。
それからの彼は、物理学の申し子とでも言うべき天才ぶりを発揮し、電動機や発電機、ブンゼンバーナーの原型、電気分解、電気めっき等に関する理論を確立。
また、化学の分野でもベンゼンを発見するなどの功績を残しています。
驚くべきは、ファラデーに正式に科学を教えた人物はいないということ。
考えてみればそれは当然の話。
現代の物理の教科書に出てくるような重要な理論の多くは彼自身が生み出したのですから。
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2 ピーター・ジャクソン
『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズなどで知られる映画監督のピーター・ジャクソンは、9歳のときから映画製作への情熱を抱いていました。
ニュージーランドで生まれ育った彼に映画の魅力を教えた作品は、1976年に公開された『キングコング』。
とにかく自分で映画を撮りたかった彼は、その資金を稼ぐため、16歳で高校を中退。
新聞社の仕事をみつけてからは、月曜から土曜まで働き、日曜日に映画を撮影するという生活を続けていました。
そうやって完成させた『バッド・テイスト』は、カンヌ国際映画祭で上映され、高い評価を受けることに。
ちなみに、ジャクソン監督が『ロード・オブ・ザ・リング』の原作を読んだのは18歳のとき。
そのときは、いつか誰かがこの作品を映画化したものを観てみたいと思っていたとか。
ところが、それから20年後、まだ誰も映画化していなかったので、待ちきれなくて自分で映画化してしまったそうです。
3 マーク・トウェイン
トム・ソーヤーやハックルベリーでお馴染みの作家といえば、アメリカ文学史を代表するマーク・トウェインです。
11歳のときに父親を病気で亡くした彼は、その翌年に学校を退学し、印刷会社で見習いとしての仕事を開始。
18歳になると、ニューヨークやフィラデルフィアなどで本格的に印刷の仕事をするようになります。
その一方で、仕事が終わると図書館にこもり、次々と本を読破して知識を増やしていきました。
彼はその過程で、普通の学校で教わる分量を軽く超えるだけの情報を吸収していったのです。
そのまま文学への道を歩むのかと思いきや、当時トウェインが本当にやりたかった仕事は、蒸気船の水先案内人。
彼は水先案内人の仕事を、南北戦争が始まるまで続けました。
その後、戦争が終結してからしばらくして、トウェインは旅に出ます。
そして、旅をしながら小説を書き、歴史に名を残す偉大な作家となったのです。
4 ヘンリー・フォード
アメリカの車社会の基盤を作ったのは、言わずと知れたヘンリー・フォード。
彼は10代のころからすでに機械いじりの才能がありました。
中学生のときに父親から時計を貰ったのをきっかけに、友人や近所の人から預かった壊れた時計を直す機会が増え、フォードはまるで時計の修理屋のようだったとか。
彼の父親は農家の仕事を息子に継がせたかったようですが、フォードは農家には全く興味が無く、17歳のときに家を出ます。
そしてデトロイトで機械工としての修行を開始。
学歴らしい学歴は無いものの、フォードはその後自動車製造に革命をもたらし、デトロイトは「自動車の都」として世界に知られることとなったのです。
5 ウォルト・ディズニー
ウォルト・ディズニーは、アメリカ人の起業家であると同時に、漫画家、アニメーター、声優、映画プロデューサーなど多くの肩書を持っています。
彼は幼い頃から絵を描くことが好きで、学校でもその才能を発揮していました。
シカゴのマッキンリー高校では、学校新聞に掲載するイラストを担当していたのです。
そんなウォルトは、16歳のときに高校を中退し、アメリカ軍への入隊を希望します。
しかし、年齢の条件を満たしていなかったので、その願いは叶わず。
それからウォルトは兄のロイとともにアニメ制作スタジオを設立。
そこでミッキーマウスのショートフィルムなどを作っていました。
その後のウォルトの功績の数々は改めて説明するまでもないでしょう。
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6 リチャード・ブランソン
イギリス人実業家であるリチャード・ブランソンは、200以上の企業を擁するヴァージン・グループの会長です。
若かりし頃に失読症に悩まされていた彼は、弁護士である父親とは異なり、学校の授業についていくのにかなり苦労していました。
サウス・イングランド高校を中退するとき、同校の校長は彼に、
「君の行く末は、刑務所の中か、あるいは億万長者かのどちらかだろう」
と言ったとか。
ブランソンは、1970年代にかの有名な「ヴァージン・レコード」をオープンし、大成功を収めます。
その後は様々な分野で事業を展開し、アメリカの経済誌『フォーブス』によれば、現在のブランソンの資産は50億ドルを超えています。
刑務所の中か、億万長者か。
高校の校長の予言は見事に当たっています。