学校英語
は何故あれほど無駄が多いのか。
その問題点を検証してみたい。
以下に挙げたのは私が個人的に感じている学校英語に対する不満である。
日本人の英語力はアジアでも最低ランクだというのはしょっちゅう言われることだ。
その汚名を返上すべく学校の英語教育に関して今まで様々な改革がなされてきた(ハズ)なのだが、日本人の平均的な語学力は何も変わらない。
これは一体何がどうなっているのか……。
〈originally posted on December 8,2014〉
1 会話よりも英作文
高校に入ると、大抵の場合、リーディングとライティングの2つの授業に分けられる。
リーディングの方はさておき、問題はライティングである。
「ライティング」と言っている割に、実際にやっている内容は「空欄補充問題」と「整序問題」がほとんどだ。
これを「ライティング」と言ってしまうのはかなり無理がある。
これはあくまで文法を理解するための練習問題というべきだろう。
では、本当の意味でのライティング、つまり英作文はどうかといえば、ほとんど手つかずの状態で終わらせる先生が大半を占める。
定期テストでも、まるで弁当に入っている漬け物のように、申し訳程度の英作文が出題されるだけだ。
その結果、大学生になっても、簡単なエッセイすら書けないという事態になる。
もっと英作文の授業に時間を割くべきなのに、文部科学省は、学校での授業をすべて英語ですることを基本方針に掲げたりしている。
これは全くの的外れだ。
そもそも、英語が分からない生徒に英語で授業をやることにどれほどの意味があるのか。
もちろん、難しい文法はなるべく使わずに簡単な英語表現しか使わないのだろうが、それでは単にリスニングの練習にしかならない。
しかも、週に数回英語を聞いたところでリスニングとしての練習効果も薄いだろう。
そんな謎めいた授業内容にこだわる前に、何故もっと英作文に重点を置かないのだろうか。
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2 メガフェップス
今の時代に、まだ「メガフェップス」などという奇妙な呪文を使って不定詞・動名詞の説明をする教師がいるのだろうか。
動名詞のみを目的語にとる動詞の覚え方なのだが、単純にそれらの頭文字を適当に並べ替えただけである。
「メガフェップス」という言葉は確かにゴロが良いので記憶に残りやすい。
しかし、それぞれの頭文字が何を表しているのかはどうやって覚えるのか。
さらに、最近ではメガフェップスでは対処できない動詞も大学入試ではよく出題される。
こんな呪文にこだわるよりは、不定詞の未来志向性と動名詞の過去志向性を説明した方がよほど覚えやすいのではないか。
3 くじら構文
「くじら構文」というのは、
A whale is no more a fish than a horse is.
という文のことを指す。
直訳すると、
馬が魚でないのと同様に、鯨は魚ではない。
となる。
いかにも妙な日本語だが、要するに、鯨は魚などではないという否定文を強調するために、馬が魚でないという事実を引き合いに出しているのである。
日本の英語教育ではどういうわけかこの表現がたいそう気に入られているようで、初めて入学試験で出題されたのは、今から100年以上も前の1906年だとされている。
しかし、この難しそうな表現は、海外では全くといっていいほど知られていない。
仮に、この表現を話の「ネタ」ではなく、真面目に授業に取り入れている英語教師がいるとしたら、かなり問題があろう。
教えるだけならまだしも、それを定期考査で出題する教師などは、もはや正気ではない。
単なる自己満足で授業を行っているとしか考えられない。
教師は常に、「生きた英語」を意識して授業をするべきだ。
ネイティブでも使わないような難解な表現を教えている場合ではなかろう。
4 ALT
中学の英語の授業で特に多いのが、「ALTの授業」である。
個人的には、アレは必要無いと思っている。少なくとも今のような授業形態のままでは。
というのも、ALTが来ると、まともな英語の授業にならないのだ。
中学3年であっても、まるで小学生の「お楽しみ会」みたいなことをやるだけだ。
英語の面白さを伝えるという目的があるのだろうが、アレは英語を楽しんでいるのではなく、「お楽しみ会」の要素を楽しんでいるだけなのだ。
結論 とりあえず、読んで書ければそれでよい
色々と英語教育について言いたいことを言ってきたが、じゃあ一体どうすればいいのかと突っ込まれそうなので、そろそろ結論を書いておこう。
学校英語は、読解と英作文にだけ集中して授業をすればよい。
以上である。
外国語を習得するためには、
読む、書く、聞く、話す
といった4つの能力が必要だが、学校英語だけでこの4つの技能を満足のいくレベルにまで引き上げようなどと考えるのは、「授業時数的に不可能」なのだ。
それをやろうとしているのが今の英語教育である。
その結果、どの技能も中途半端なレベルで終わってしまう。
アジア諸国の中で、日本人の英語力がいつまでたっても低いままなのはこれが理由だと思われる。
こういうことを書くと、
日本人は英語を「読む」のは得意といっていい。大学入試の英語長文だってかなりレベルは高い。
という人がいる。
しかし、一般的に日本人は英語を読む技能も低いと見るのが正解だと思う。
高校の授業で一体どれくらいの文章を読むのかといえば、1年もかかって薄っぺらい教科書を1~2冊読むだけである。
読む量が絶望的に少ないのだ。
これで十分な読解力を付けようと思うのがそもそも無理な話なのである。
少なくとも、今の倍以上は読まねばならないだろう。
そのためには、「英会話」の能力を伸ばすための授業は後退させざるをえない。
しかし、それも致し方ない。
それに、日本人にとって「英会話力」というのは、ごく一部の人にしか必要の無い能力である。
順番としては、まず「読む」「書く」ということの方が先であろうと思う。
少なくとも、学校英語だけで簡単な日常会話ができるレベルを目指すのは、体育の授業だけでオリンピックを目指すくらい無理がある。
この点に関して、成尾眞氏の書かれた『日本人の9割に英語はいらない』という本が大変参考になる。
私自身、この本の内容に全面的に賛同するわけではないけれども、しかし今の学校英語教育の抱える問題を考える上で大いに示唆に富む内容である。
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