刑務所での生活
がどのようなものかは、実際のところ、服役した者でなければ分かりませんが、とりあえず集団生活に慣れないことには始まらないということだけは確実でしょう。
しかし、仮に刑務所内にいる囚人が一人だけだったら。
周りのことなど一切気にせずに過ごせるのですから、罪を犯した者には相応しくないほど快適と言えます。
そして、そんな刑務所が、かつてドイツのベルリンに存在しました。
〈originally posted on October 28,2019〉
1 シュパンダウ刑務所
シュパンダウ刑務所には、長年にわたり一人の囚人しかいませんでした。
その囚人の名は、ルドルフ・ヘス。
1934年から1941年にかけて、ナチス・ドイツの下でパイロットや歩兵を経験し、トップクラスの権力を握るまでになった男です。
領土拡大のための数々の計画立案に関わっており、それらは第二次世界大戦の気運が高まる一因になりました。
1941年5月10日、ヘスがイギリスの領空を飛行中、エンジン機器の故障から機体が落下。
パラシュートを使って脱出したものの、彼はイギリス当局によってすぐに逮捕され、収監されました。
1945年に終戦を迎えると、ヘスはニュルンベルク裁判で被告人として出廷するためにドイツへ。
裁判の後、彼はシュパンダウ刑務所に収監されます。
このとき収監された人数は、ヘスを含めて7名。
全員ヒトラーの片腕として活動していた人物です。
この中で、終身刑を宣告されたのはヘスのみで、他はみな有期懲役でした。
年月を経るにつれ、ヘス以外の囚人は次々と刑期を終えて出所し、最後に残ったのはヘス一人だけ。
この刑務所自体は約600人を収容できますが、その建物を彼は、いわば貸し切りにしている状態だったのです。
もちろん、彼は広い刑務所内を自由に行動できます。
一人しかいないので、他の囚人とのトラブルなどはゼロ。
そのおかげなのか、ヘスの健康状態はおおむね良好でした。
一日の過ごし方は、本を読んだり、映画を観たり、ガーデニングをしたり。
朝は7時前に起床し、8時前に朝食、しばらく散歩をして、10時半に早めの昼食。
それからまた散歩などで時間を過ごし、午後5時に夕食を摂って、10時に就寝。
全く同じこのスケジュールを、来る日も来る日も彼は40年以上続けたのです。
シュパンダウ刑務所は、4つの国(アメリカ、イギリス、ロシア、フランス)が毎月交代で管理・監督し、看守や兵士、清掃員、医師なども各国が派遣する形を取っていました。
当然のごとく、この刑務所を維持するだけでかなりの費用がかかり、その額は年間100万ドルとも。
たった一人の囚人のために100万ドルです。
では、なぜこの男は他の普通の刑務所に移されることが無かったのか。
それは、このシュパンダウ刑務所が西ドイツに所在していたことに関係しています。
旧ソ連時代、まだドイツが東西に分かれていた頃、ソ連はシュパンダウ刑務所に対する管理権を持つことで、送り込んだKGBを通じて西ドイツの情報を得ていたのです。
しかし、刑務所が閉鎖されてしまうと、それも出来なくなる。
そこで、先の4ヶ国の中でソ連だけは頑なにシュパンダウ刑務所の存置を主張し続けていたというわけ。
一人だけの囚人であるにも関わらず、「ナンバー7」という番号で呼ばれていたヘスは、1987年8月17日に93歳で亡くなりました。
その日、刑務所の職員が、中庭で照明のコードを首に巻き付けて死んでいるヘスを発見したのです。
状況から見て自殺というべきですが、そう断定するには少し腑に落ちない点があります。
まず、93歳の老人に、コードで自分の首を締めるほどの力があるのか、ということ。
さらに、40年以上も刑務所での生活を続けてきて、自殺という手段で命を絶ったのは不自然だという見方も出来ます。
彼の家族は、ヘスは看守によって殺されたのだと主張していましたが、真相は闇に包まれたままです。
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2 ピンクの刑務所
囚人が一人だけの刑務所なら看守の仕事はラクです。
では、多数の囚人を抱える刑務所で、看守の負担を減らすにはどうするべきか。
その答えの一つが、ピンクです。
2013年、スイスでは、一部の刑務所で独房の壁がすべてピンク色に塗り替えられました。
その目的は、囚人の気持ちを落ち着かせ、ケンカなどの厄介事を防止するため。
専門家の話では、これで確実に効果はあるとのこと。
しかしながら、囚人には大不評でした。
曰く、「女の子の寝室に入れられているよう」なのだとか。
刑務所でピンク、という試みはこれが初めてではありません。
2006年には米国テキサス州の刑務所で、囚人にピンク色の服を着せることが義務付けられました。
これは、再犯を犯して刑務所に戻ってくるのを防ぐため。
刺青を彫った屈強な男たちがピンク一色でいる光景は、確かにちょっと笑えます。