乗組員を失っても航行し続ける、不気味な幽霊船をご紹介します。
映画などに出てくる幽霊船は、見た目がぼんやりとしていて、本当にそこに船が存在しているのかさえ怪しい感じで描かれます。
一方、現実に発見される「幽霊船」は、船員たちがいないにも関わらず船体だけが海を彷徨っていることが多いのです。
そして、何故そのような状況になったのかを解き明かしていくと、意外な真実にたどり着くことも……。
〈originally posted on July 29,2017〉
1 説明不能な失踪を遂げた船員
1872年12月5日、ポルトガル領アゾレス諸島から数kmの海上で、漂流している商船メアリー・セレスト号が発見されました。
船体には特に損害は無く、船内にある積荷や貴重品、乗組員の所持品等はそのままの状態。
食料も優に6ヶ月分が備蓄されていました。
何の問題もなく航行できる状態であるにも関わらず、人の姿だけはどこにも見当たりません。
救命ボートが取り外されていたので、乗組員たちはそれに乗って脱出したと考えられます。
しかし、小さなボートのみで荒れる海へと出て行かねばならないほどの「緊急事態」とは一体何だったのか。
航海日誌に残された最後の記録は、船の発見から10日前のもの。
その時点でのメアリー・セレスト号の位置は、発見場所から約650kmであることが記録から読み取れました。
不可解なことに、乗組員たちが脱出したと考えられる場所は、アゾレス諸島からわずか10km離れているだけだったのです。
そこまで島に接近していながら、経験を積んだ船長が船を放棄した理由とは何か。
これについては実に様々な説があります。
船内にはアルコールの入った樽が1700個積まれていたので、そのアルコールを飲んで泥酔状態になった船員たちが職務放棄したという説。
或いは、アルコールの蒸気が樽から漏れ出したため、引火による爆発を恐れた船長が脱出を指示したという説。
他には、ポンプの故障が原因で水が大量に入り込み、沈没の危険が発生したために全員脱出したという説。
などなど……。
未だに定説と呼べるものは無く、140年以上もの間、メアリー・セレスト号の謎は議論の的となっているのです。
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2 最後の日に撮られたビデオ
2007年4月15日、オーストラリアのエアリービーチから、キャズII号というヨットに乗って3人の男性(デレック・バトン、その隣人であるピーター&ジェイムズ・タンステッド兄弟)が出発しました。
ところがそれから5日後、そのヨットは無人で漂流しているところを発見されます。
ヨットに異常はなく、何かトラブルが起きたような形跡も見当たらず。
テーブルの上には食事が用意されており、ノートパソコンの電源も入ったままです。
ヨットのエンジンはまだ動いている状態で、ライフジャケットも人数分ありました。
GPSや非常通報システムにも問題なし。
ヨットが唯一受けていたダメージは、破れた帆だけでした。
3人の男性の所持品は、銃も含めて何も盗まれてはいないため、何者かに襲撃された可能性も考えられません。
その後、警察の捜査によって、ヨットから1本のビデオが発見されました。
恐らく彼らが消息を絶った日に撮影されたらしいその映像には、ライフジャケットを身に着けた者が一人も映ってはいなかったのです。
ヨットに何らかのトラブルがあったのなら、これは極めて不自然。
このビデオ以外に有力な物的証拠は無く、検死法廷は3人の辿った運命に関して「不幸な事故」であると断定しました。
3人のうちの一人が誤って海に転落し、それを見て救助しようとした残りの二人も溺死したと考えたわけです。
しかし、この推論に大半の人は納得できず、その中にはデレック・バトンの妻も含まれていました。
彼女の話によれば、ヨットの旅に関して夫のデレックは25年の経験があり、出発に向けて綿密に計画を立てることを決して怠らなかったとか。
そんな彼がいたにも関わらず、溺れかけている人を助けるのにライフジャケットや救命ゴムボートが一切使用されていないのは何故なのか。
別の説としては、想定外の荒波にのまれてしまったのではないか、とするものもあります。
しかし、ヨット内の物品は全てキレイに整理された状態のまま残っており、悪天候に遭った可能性は低いのです。
結局、キャズII号に何が起きて、3人の運命がどうなったのかは、今でも大きな謎とされています。
3 消えた5番目のボート
1906年1月20日、アメリカの蒸気船バレンシア号は、157人を乗せてバンクーバー島に向けて出港しました。
往路は安全そのものでしたが、復路で悪天候に見舞われて座礁。
さらに、岩の間に挟まれて身動きが取れなくなりました。
救助隊がバレンシア号に向かおうとしますが、波の勢いが強すぎて近づくことが出来ません。
その間も、船の乗客は次々と荒波に流されていきました。
救助に成功したのはわずか37人で、助かった人たちの話では、船上は正に阿鼻叫喚だったとか。
その後、バレンシア号は波に打たれて船体が分裂し、海の中へ。
船に備え付けてあった5艇の救命ボートの全てが救助に使われましたが、どういうわけか回収されたのは4艇のみ。
最後の1艇だけは所在が分かりませんでした。
ところが、事故から27年経った1933年、ブリティッシュコロンビアの海岸沖を漂っている「5番目の救命ボート」が発見されたのです。
ボートには誰も乗っておらず、また、ボートの塗装はほとんど剥がれ落ちていませんでした。
27年も海を漂流していた割に経年劣化が皆無に等しいというのはいかにも奇妙です。
それに加えて、事故から数十年の間、沈んだはずのバレンシア号が航行しているのを見たという人が後を絶ちませんでした。
船上に人の姿は見えず、まるで自らが辿った運命を何度も繰り返すかのごとく、バレンシア号は海を彷徨い続けたと言われています。
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4 世界一周に挑んだ男
1968年、イギリスの新聞『サンデー・タイムズ』が主催する、世界一周ヨットレースが開催されました。
参加自体は誰でも出来るので、リスクを承知の上であれば、海に出た経験が無くても挑戦可能。
ただ、このレースには「途中で一度も寄港しない」というルールがあったため、素人が参加するにはハードルが高すぎます。
にも関わらず、経験の浅いドナルド・クロウハーストという男性は、賞金獲得を夢見てこのレースに全てをかけました。
ここで問題となるのが、世界一周するのにかかる莫大な費用。
それを賄うためのスポンサーを何とか見つけたものの、契約の際にかなり厳しい条件を出されてしまったため、不甲斐ない成績に終わったり、途中で棄権したりすれば、彼は破産しかねない状況でした。
1968年10月31日、クロウハーストは、イングランド南西部デヴォン州ティンマスから世界一周の旅をスタートします。
気合十分で出港したのですが、そこはやはり素人。
クロウハーストのヨットは、当初の予定の半分しか速度が出せず、最初の数週間で大きく遅れを取ってしまうことに。
しかし、定期的に彼が無線で報告する位置情報によると、クロウハーストは順調にペースを上げ、3位をキープしていました。
そして、翌年の4月22日、ロビン・ノックス・ジョンソンという男性が、世界一周を終えて最初にゴールします。
それから約3ヶ月の間、追い上げていたはずのクロウハーストのヨットは、何故か全く姿を現しませんでした。
1969年7月10日、海上を漂流する彼のヨットがようやく発見されます。
無人の状態で。
クロウハーストに一体何があったのか。
彼のヨットに残された航海日誌が、その謎を全て明らかにしました。
クロウハーストのヨットは、そもそも世界一周レースになど耐えられる設計ではなく、彼自身の経験不足と相俟って、無事にゴールするのは到底不可能な状況でした。
しかし、途中で棄権すれば、巨額の借金を抱えるハメになります。
そこで彼は一計を案じました。
大西洋でヨットを止めてひたすら時間を潰し、先頭集団が戻ってきたらそれに合流しようと考えたのです。
そのために、彼は無線でウソの位置情報を伝え、航海日誌も捏造しました。
クロウハーストとしては、3位か4位あたりでゴールすれば、優勝賞金は逃してしまうが注目を集めることも無く、スポンサーとの契約にも違反しないと思ったわけです。
ところが、予想外の事態が発生しました。
2位をキープしていた参加者が、3位のクロウハーストが後ろに迫っていると思い込んで無理をしたため、ヨットが破損。
その結果、彼は棄権を余儀なくされました。
このままいけばクロウハーストが2位。
しかも、彼が出発したのは他の参加者よりも遅い日だったので、世界一周「最速記録」の称号はクロウハーストに与えられる可能性がありました。
そうなると、当然彼の航海日誌は詳細なチェックを受けることになり、そこでウソがばれるのは必至。
このプレッシャーに彼は次第に耐えられなくなり、精神的にかなり不安定な状態が続きました。
それは日誌の文面にもはっきり現れており、日を追うごとにその文章は狂気じみていったのです。
日誌を書くことが、辛うじて正気を保つ唯一の手段だったのかもしれません。
彼が書き残した文章は、2万5千語を超えていました。
最後の記録の日付は1969年7月1日。
そして正にこの日、クロウハーストはヨットから身を投げたと考えられています。